菅家アーカイブ

過去のブログで書いてきたお笑いDVDレビューをまとめました。

シティボーイズミックス PRESENTS 『西瓜割の棒、あなたたちの春に、桜の下ではじめる準備を』

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(2014/04/30)
大竹まこと、きたろう 他

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2013年4月20日。

この日、私は大阪にいた。行ってもらいたいと頼まれたわけではない。自分の意志で大阪へとやってきたのである。我が香川県から“笑いの聖地”大阪へと向かう手段は様々だ。ある者は新幹線を使い、またある者はフェリーを使うだろう。ある猛者は二本の脚で向かおうぞと豪語するやもしれないし、あるブルジョアジーはあえて飛行機で向かおうと葉巻なんぞを咥えながら優雅に語るかもしれない。私の交通手段は高速バスである。決して優雅とはいえないが、体力を必要としないし、なにより予算がそれなりなのが好都合だ。ちなみに、宿泊施設は常にカプセルホテルである。欲情でおっさんたちのヌードを堪能できるところが実にイイ(別に発情したゲイではない)

では、どうしてこの日、私は大阪にいたのか。それは、敬意と畏怖の念を持って“笑いの殿堂”と称されているなんばグランド花月の敷居を跨ぐためでもなければ、落語CDが充実していると噂に聞いた中古CD店・大十(※現在は閉店)で予算の限りショッピングを楽しむためでもなく、落語専門の定席として知られている天満天神繁昌亭上方落語を堪能するためでもなければ、某ファッションヘルスで軟体を駆使し(以下略)に会いに行くためでもない。シティボーイズの公演をナマで鑑賞するために、大阪を訪れたのである。

シティボーイズは、大竹まこと、きたろう、斉木しげるによって1979年に結成されたコントユニットだ。結成以来、ステージでのコントにこだわり続けている彼らの笑いは、ナンセンスと称されることが多い。ナンセンス。即ち、意味を持たない。無意味な笑い。事実、ライブが終わるたび、まるで確認するかのように、大竹まことはある言葉を口にする。「後には何も残らない。何も残さない」。それが彼らの笑いの心情であり、唯一のルールなのだ。

私が初めてシティボーイズのコントを目にしたのは、大学生の頃だった。近所のレンタルショップに、シティボーイズのライブビデオが置いてあるのを見つけ、なんとなしに借りたのである。当時、既にラーメンズバナナマンのコントを知っていた私は、様々なコントに対して興味津々だった。だからこそ、大竹まこと、きたろう、斉木しげるという、何処かで名前を目にしたことのある面々のコントにも、素直に興味を持つことが出来たのだろう。その時、私が借りたのは『シティボーイズミックスpresents ラ ハッスル きのこショー(2001年)』。それまでシティボーイズの舞台演出を手掛けていた三木聡が降板、これまでとは違う新しい笑いの世界を目指さんとする意欲作だった。ゲストは中村有志いとうせいこう。当時は知らなかったが、シティボーイズの舞台ではお馴染みのゴールドメンバーである。その、時の流れを超越した普遍性の高いコントに、私は激しく感動した。

あの日から、およそ10年。思えば長かった。今でこそ、お笑いの舞台を鑑賞するという行為を平然と実行できる私だが、当時はそんなことを考えもしなかった。お笑い芸人のネタはテレビで観るもので、わざわざ劇場や会館などに出向いて、ナマのステージを観ようという発想が無かったのである。ましてや、県境を越えて、それなりの交通費を支払って、宿にまで泊まって、お笑いのステージを観ようなどという考えに思い至るわけがない。……思えば遠くへ来たもんだ。物理的にも、精神的にも。

場所は大阪、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ。公演タイトルは『シティボーイズミックスPRESENTS 西瓜割の棒、あなたたちの春に、桜の下ではじめる準備を』。2013年4月から5月にかけて、東京、大阪、名古屋、北九州を巡る全国ツアーのうちの、とある一日のことであった。

 

本作の特色は、なんといっても宮沢章夫遊園地再生事業団)が演出に復帰した点にある。宮沢氏は、かつてシティボーイズいとうせいこう中村有志竹中直人らとともにユニット“ラジカル・ガジベリビンバ・システム”のメンバーとして活動、初期のシティボーイズの公演の演出を手掛けていた。三木聡の降板後、シティボーイズの舞台演出は細川徹が主に手掛けていたが、『10月突然大豆のごとく(2010年)』を最後に降板。その後、漫画家の天久聖一を演出に迎えて『動かない蟻(2011年)』を開催するも、特に方向性が定まっていない状態だった。そんな最中に、宮沢氏が復帰するというのだから、往年のファンには勿論、比較的新規のファンである私にもたまらない。また、ゲストにはいとうせいこう中村ゆうじと“ラジカル……”時代の顔ぶれが揃っているのだから、否が応でも期待値は上昇する(この他にも、笠木泉戌井昭人が参加)。

で、いざ鑑賞してみると、見事にそのハードルを飛び越えていってしまった。

ライブはキャリーバッグを引いているスーツ姿の五人の男たちとともに、音も無く始まる。本当に何の音も無い。緞帳は開場した時点で開けっ放しになっているし、開演を告げるブザーも静かなままだ。何の前触れもなく、剥き出しになった鉄骨を思わせる舞台美術の間から、男たちは現れる。観客には拍手する時間も与えられない。彼らは自然に現れ、ゆっくりと舞台に現れる。瞬間、先頭を行く男(斉木しげる)が立ち止り、言い放った。

「俺……カツラなんだ」

コントが始まった瞬間だった。男のカミングアウトを受けて、他の男たちは盛り上がり始める。そのカツラが、地毛としか思えない出来だったからだ。なるほど、よく見てみるとカツラだ。引っ張っても外れない。踊ってもズレない。よく出来たカツラだ……が、こんなことをしている場合ではない。男たちには行かなくてはならない場所があった。急がないと大変なことになってしまう。もし遅れたら門が閉まってしまう。しかし、一度ズレてしまった志向は、そう簡単には戻らない。男たちは自らの身体の様々な偽物を自慢し始める……。その最中、大竹が唐突に喋り始める。

大竹「あ、薬飲まなきゃ」

いとう「なんですか?」

大竹「いや、風邪気味だからさ、さっき薬局で……」

途端に舞台は暗転し、そして明転。大竹が喋り始める寸前に戻る。

やがてスーツ姿の三人の男たちが去っていき、舞台上にはきたろうと中村だけが残される。中村はかかってきた電話を受けてうどん屋に変身し、きたろうはいきなり現れた女(笠木)からセックス・ピストルズについて解説を受け、その女とツレの男(戌井)は路上のCDを探して回っている。不条理。まさに不条理の世界。そこへ更に、夏服姿の目隠しをした男(斉木)が現れ、両手で握りしめた棒を地面へと叩きつける。

「この辺に、西瓜はありませんでしたか?」

何かが何かを示唆するように、何かが何かを意図するように、それは脈絡がないようでいて、全てに一貫性があるようでいて、何もかもが無意味なようでもある。独特の緊張感をもたらしながら、あらゆるコントは流れるように展開し続ける。四角四面のカウンターで多岐に渡る商売をこなしているマスターの元には、物件を探している訳有りの二人と西部戦線から応急処置を求める戦士が同時に訪れ、職業案内所には仕事の無い男をとある地方へと誘う男が姿を見せ、退屈しのぎに始まったコントのブラックユーモアに上の方から派遣されてきたという女が不謹慎を叫ぶ。

「人の死をそんなに簡単に扱っていいんですか? 2011年3月のこと忘れたんですか?」

前回の公演『動かない蟻』において、シティボーイズはあの東日本大震災を取り巻く環境をストレートにコント化していた。しかし、ストレートであるが故に、ナンセンスな笑いで時代を切り取るシティボーイズがそれを表現する意味が分からなかった。それからおよそ1年半後に開催されたこのライブでは、シティボーイズだからこそ表現できることが、表現できていたように思う。時にさりげなく、時にはストレートに、その不穏で落ち着かない空気の不気味を、不条理を、無意味を、彼らは舞台で表現してみせた。

そして、とあるコントで、観客たる我々はあることを問われる。

「この方は、可哀想な方なのよ?」

誰が可哀想なのか。何が可哀想なのか。どうして可哀想だと思うのか。可哀想に感じてしまう自分は自己嫌悪を覚えるべきなのか。可哀想だという人に手を差し伸べないことは批判されるべきことなのか。

大阪公演の鑑賞後、私はなんばの街を散策し、とあるつけ麺屋に飛び込んだ。既に時刻は20時を回っていたが、店内は客で賑わっていた。田舎では味わうことの難しい、クセの強い濃密な味を堪能し、一息ついたところで思い出した。そうだ、薬を飲まなくては。大阪に行く直前に体調を崩したようで、ちょっと風邪気味だったのだ。さっき、薬局で


■本編【約114分】