菅家アーカイブ

過去のブログで書いてきたお笑いDVDレビューをまとめました。

『あの年の夏はよく思い出せない』考察。

十
(2008/03/12)
オリエンタルラジオ

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数日前のことだけれど、某巨大掲示板オリエンタルラジオの『十』に収録されている、ボランティアを皮肉ったコント……」という記述を見かけた。僕はこの文章に、ちょっとだけ違和感を覚えた。確かに、あのコントはボランティアをしている人たちの精神を皮肉ったようなところがあるけれど、それが笑いになっているわけじゃない気がしたからだ。

そもそも、そのコント……つまり、『あの年の夏はよく思い出せない』は、どういうコントなのか。それについて書いておこうと思った……が、思いっきりネタばれになってしまうので、ここでは書かない。たぶん、言葉では伝わりきらないと思うし。なので、ここから先の文章は、既に『十』を観た人に向けて書く。もちろん、あくまで個人的な見解なので、それが正しいかどうかは分からないけれど。

確かに、あのコントのオチって、「ボランティアをしている人たちの軽すぎる理由」を取り上げて、そのボランティア行為の偽善性を皮肉っているようなところはある。それは間違いないんだけれど、それは、このコントにおける付加価値でしかない。

じゃあ、あのコントは何が笑いの要素として組み込まれているのか。それについて書くには、まず、あのコントにおける中田演じる小寺のポジションを思い出す必要がある。小寺は、常に冷めた目線で世界を眺める青年だ。部屋の外で掃除をしているオバサン、カラオケで気のある素振りを見せる女性、見送りにやってくる沢山の人たち……それらを全て「ボランティア」と言い切ってしまう、妙な冷たさを持っている。

結局のところ、このコントにおける小寺というキャラクターは、例えば学校のクラスに一人くらいはいた「世の中に冷めている人」なのだ。副音声で中田が「学生の頃の自分を意識して演じている」という旨のことを言っていたけれど、たぶん中田はそういう学生だったのだろう。で、視聴者はこれを見て「なんでそんなに冷めてんの?」と感じる。かつて、近くにいた「世の中に冷めている人」を思い出しつつ。

そしたら、あのオチになるわけだ。あのオチで、それまで観ていた人たちは「マジやったんかーい!」と驚愕する。この、予想外の発覚が、笑いになっているんじゃないかなー。

……と、ここまで書いたところで副音声を聴き返すと、中田が「漠然とした善悪の善に対する毒づき」と語っていた。ありゃ。そうなると、やっぱりボランティア批判を含んだコントだったってことなのかなあ。うーん……。