菅家アーカイブ

過去のブログで書いてきたお笑いDVDレビューをまとめました。

再考・大久保佳代子劇団『村娘』

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(2011/02/23)
大久保佳代子光浦靖子

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このところの自分はどうも、物事を理屈で考えなくてはならないと思っているきらいがある。無論、評論ブログを謳っている以上、それは間違った考えではない。だが最近は、評論ブログを更新しているという自覚が強くなりすぎたため、理屈で考え過ぎてしまっている傾向が見られるようになってきた。これは良くない。過ぎたるは及ばざるが如しという言葉もあるように、何事も過剰になれば塩梅が悪くなる。いや、それもまた面白いと考える人もいるだろうが、書いている自分がこれを宜しくないと思っているのだから、しょうがない。

先日、くどくどと下らないことに容量を多く使った『村娘』のレビューもまた、そういった状態で書いたものだ。このテキストを書いていた時分、僕はこの芝居の本分を理屈で探ろうとしてしまい、結果、なんともつまらない内容に留まってしまった。果ては、この作品を見ていて思ったこと・感じたことなどは二の次三の次へと追いやって、程々に体裁の取れた内容で終わらせるという、適当で粗雑な扱いをした。本文に入る前に、あれだけパッケージ裏の解説に文句をつけたくせに、この様な態度である。これは許されるべきではない。あらゆる評論系ブログに申し訳が立たない、腑抜けの行為である。

そこで此度、改めて件の作品、即ち『村娘』について考えたいと思った次第である。

 

今作のストーリーについては、先日の記事を参考にしていただきたい……が、それを面倒に思う人がいるかもしれないので、ここで改めて解説しよう。舞台は過疎化が進んでいる離島の村。若者たちは都会へと出ていったきり、まるで帰ってこない。もっと若者が興味を引く活動をしなくては……ということで、村の代表者が集まって村おこしの相談を始める。メンバーは、話し合いの場を提供している旅館の女将日向貴子(池谷のぶえ)と従業員の日向良男(花輪淳一)、役場代表でやってきた男(いけだてつや。役名が“役場”)、村代表の日向重(高橋健一)、そして都会から帰って来た日向淳子(大久保佳代子)とその一味である日向昌子(川村エミコ)と日向百恵(白鳥久美子)の、合計七名。場を仕切りたがる淳子と、そこに話を合わせようとする昌子と百恵に話し合いは掻き回されるが、最終的に「癒しをアピールしよう!」という結論に至る。その活動の一環として、村の娘たちはフラダンスを覚えることに。そんな彼女たちにフラを教えるため、ハワイ留学に行っていた貴子の娘であり村の数少ない美女である朱美(福田麻衣)が村に帰ってくる……。

キャッチコピーが「ブスと卑屈はイコールなのよ!」とあることからも分かるように、この作品は“ブスの女子”を中心に構築されている。ここでいうブスとは、即ち淳子・昌子・百恵の三人だ。今作において、彼女たちは常にブスの女子ならではの行動を取り、それを笑いに昇華している。例えば、三人が朱美にフラダンスを習うシーン。朱美がその場からいなくなった途端、淳子が朱美の陰口を叩き始める。興味津々の二人は、それに合わせるように「そういえば……」と話題を盛り上げようとするのだが、途端に淳子は、まるでそれを初めて耳にしたかのように「へー、そうなんだーっ!」と驚いてみせる……と、いうような行動が、延々と繰り返されていく。

この様な行動が続くのであれば、そのうち彼女たちに対して不快感を覚え始めるのではないかと思われるかもしれないが、これが不思議とそうはならない。何故ならば、淳子たちのどうしようもない行動の数々は、ただ単に上手く立ち回れないが故の不器用さから来るものだということが伝わってくるからだ。村にやってきたイケメンの学者本多(冨森ジャスティン)に手作りのマドレーヌを渡そうとするも、「甘いものは苦手だから」と断られて、たまらず絶叫する昌子の姿などは、そのあまりの不器用さに涙が出るかと。その一方で、少し本多に気がある素振りを見せる朱美が、上手く距離を縮めていく様を見せつけられるのだから、もう……たまらない。作・演出を担当した光浦靖子は、「Quick Japn」のインタビューで次の様に語っている。「ブスが明るく朗らかなわけがない。ブスが卑屈なのは仕方が無いんだから、それを責めるほうがおかしいと訴えたい」。まさに、その意図が伝わってくる構成だ。

そして物語の終盤。お決まりの恋愛ドラマの如く、朱美と本多は結ばれそうになる。が、そこへ淳子がやってきて、自らの思いをぶちまける。「私たちは何も悪いことしてないのに、劣ったものとして扱われるの!」「綺麗に生まれた女は、大した努力も苦労もせずそれなりの男と付き合える!それなりの男と結婚してる!でも、私たちがそれなりの男と付き合おうと思ったら、才能か底抜けの性格の良さを持ち合せなければならない!ねえ?これって不公平だよね!?」「ただのブスは夢見る権利すらないのよ!?」。この時、これまでの全ての展開が、この瞬間の為に用意された“フリ”であることに気付かされる。これこそ、作品を通じて本当に光浦が訴えたかったことだ。これに朱美が反論し、先に書いたキャッチコピーのセリフへと繋がる。「ブスと卑屈はイコールなのよ…」。これまでの流れがあるからこそ、この言葉の説得力はとてつもない。

やがて、誰も予想できなかったオチを迎える。が、物語の全てが先のシーンに繋がっていることから分かるように、このオチは予定調和でしかない。……もとい、「ブスの部分をさらけ出した光浦」が、それを恥じらって「芸人としての光浦」にオチを託したような、そんな印象を受けた。むしろ、だからこそ、先の展開が光浦の真摯な意見であることが、よく分かるといえるのではないだろうか。

本編の副音声において、この舞台に出演した宮崎吐夢大人計画)は次の様に語る。「オアシズはデビューから一貫していて、「私を差別するな。私は差別するかも」っていうテーマがブレないんですよ。(略)このメッセージって本当に人間的で、普遍的なんですよ」。生まれながらに卑屈を強いられてきたブスたちのメッセージは、哀しくもコミカルに観客たちの心へと突き刺さる。それでも世間は、無意識のうちに彼女たちを差別し続けるのだろうが……。